私の父は昭和一桁生まれでした。
既に他界していますが、第二次世界大戦当時に石油関連施設で働いていた父は、まだ未成年、今で言えば高校生くらいで戦地へ行ったと話していました。
兵隊では無く支援部隊だったとか…。
私が子供の頃に時々ではありましたが、戦地、戦場の話をしていましたが、その時の生々しい話をとても良く覚えています。
銃弾が自分の首をわずかにすり抜けていった…その赤いやけどの跡が暫く残っていたこと。
戦地へ向かう戦艦の中で就寝中、偶然に起こされ甲板に出たら、丁度寝ていたその場所に魚雷が当たり、まだ寝ていたら見る影も無かったこと。
投げ出されて海で漂いながら、救命に来た船に乗り移ろうとしたときに、荒い波に船同士が衝突、そこに挟まれ海に沈んで行く仲間がいたこと。
派遣された南東の島では食べるもの無く、餓えも経験したこと。
本当は思い出したく無かったのか、まとめて説教として話すと言うよりも、時々お茶を飲みながら、今生きているのはまぐれに近い、こうして平和にお茶出来る事を深い平和として感じ、つぶやくように話してくれた様に今思えます。
幸い現地の住人とは仲良く?出来ていたのか、少しだけタガログ語を話していました。
これら話を聞くたびに私は、ほんのわずかな時間?あと数センチの距離?その一瞬の運?
が味方しなければ、私が存在しないどころか、父も戦地で遺骨になっていたのだと複雑な感覚になりました。
多くの兵士、仲間を失って、その後の敗戦を経験し、しかしなんとか無事に日本に戻って来てくれたからこそ、そこに父と母、家族が存在し、そして今の私も存在出来ている事を、当時も、そして今でもとても不思議に感じます。
しかし、こんな話は昭和初期の、生まれる前のとっくの昔の出来事をとして、心の奥に追いやっていましたが、まさかの事態が今世界で起こっています。
報道で木の板を銃に見立てて練習する場面が有りましたが、私の母も戦時中に、「村に残る婦人があつまって山中で竹やりをもって戦う訓練をしていた…」と言っていました。
同じ場面を見て悲しさを通り越します。
一刻も早く、この戦火が終わり、少なくとも武器を使うなどと言う戦いがこの世から無くなる事を祈ります。
この先に生まれる筈であった沢山の普通の平和を汚さない為に…。